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阪神大震災

 平成7年1月17日午前5時46分。震度7という未曾有の大地震が神戸を襲った。阪神大震災である。
 当時、私は兵庫県川西市に住んでおり、強烈な縦揺れ、その後の横揺れで飛び起きた。暗闇の中、訳も分からず、ライタ−で部屋の中を照らすと何もかもメチャクチャになっており、 不安に駆られて外へ飛び出した記憶がある。「まさか関西で大地震なんて・・・・」想像もしていなかった事が現実に起こり、状況が分かるにつれ大自然の脅威を改めて感じさせられた。

 当時伊丹空港は関空開港後、国際線のスペ−スが充分に空いており、これを生かして震災支援の拠点として全国各地の防災ヘリが飛来し、震災当日から米軍と自衛隊による救援物資の空輸が行われた。この受け入れ作業を私の会社が行う事となり、初日から作業が始まった。

 震災発生から数日後、上司が私に「今応援に出ている人達を休ませなければならず、明日支援作業を手伝ってもらえないか」と声がかかり、実際に物資の取り降し作業をする事となった。

横田基地から飛来した米軍のC-130輸送機


 翌朝06:00に事務所に集合し、旧国際線エプロンへ向かうと既に自衛隊及び米軍の責任者が打ち合わせをしており、それに加わって作業の手順を確認する。そうこうしているうちに米空軍の1番機C−130が着陸してきた。CAB(運輸省航空局:当時)職員のマ−シャリングでC−130がスポットインするとすぐに後部のランプドアが開き、救援物資が姿を現した。

 私の担当は3.5tフォ−クリフトに乗って、10tフォ−クリフトや自衛隊のパレットロ−ダ−で機内から降ろされた物資を小分けし、自衛隊のトラックに積む事であった。
スキッド(木製のパレット)に載せられた水はかなりの重さがあり、3.5tのフォ−クリフトでもゆっくり移動しないと後部が浮き上がるため慎重な作業が要求される。前の部所でフォ−クリフトは乗り慣れていたが、この救援物資が被災者の所へ届くと思うとその重要さが身に染みてプレッシャ−となり、かなり神経を使った。

 トラックに搭載した後、今度は残ったパレットを米軍機に積む作業へと移る。1枚100kg近いパレットを数枚重ねてC−130へと持って行き、米軍の担当者の誘導で機内へ搭載する。当然相手はアメリカ人。日本語が通じるわけもなく、身振り手振りで応えながらなんとか搭載完了。お互い右手の親指を立て、「OK!」とやりとりをした。

 ランプドアが閉まりC−130はすぐさまエンジンスタ−ト。T−56エンジンの轟音を残してランプアウトして行く。コクピットからはこちらに手を振るパイロットが見え、我々も「ありがとう」と心を込め手を振り返す。やがてC−130は離陸し北の空に見えなくなっていった。
そんな作業が自衛隊、米軍合わせて1日に10便程度繰り返され、最終便が離陸する頃には辺りは真っ暗になっていた。

米軍機からの物資取り下ろし 岩国より飛来した海兵隊のKC-130 入間基地のC-1

自衛隊トラックへの物資積み込み作業

 作業の合間に米軍の担当者と話をしていると「日本はスゴイ。アメリカでは災害時に軍が出動するのは救援と治安維持のためである。日本は散らかった商店の物を市民が片付けている。本当に素晴らしい」と言っていた。我々にとっては普通の光景ではあるが、彼には奇異に見えたようである。日本の平和さを改めて実感した。

 私たちの支援作業は延べ12日間に渡り、217パレット約271tをこなし、増員された航空自衛隊に引き継ぎ、終了した。

 今回このような震災支援作業に参加し、私自身非常に貴重な体験をしたと思う。また、米軍の即応力の高さには改めて驚かされた。

 日本は地震列島と呼ばれ、今でもたまに震度3クラスの地震が各地で発生している。阪神大震災は発生後かなり年月が経ち、風化してきていることは否めない。

 「喉元過ぎればなんとやら」だが、今後同規模の地震が発生した場合、それに再び対処できるのだろうか。あの震災の貴重な体験をいつまでも忘れずにいたいと思う。

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